セグメント液晶は、電極のパターンで遊びを決める。
電源を入れる前のボールの画面には、これから出るはずの絵柄が薄く並んでいる。点のあつまりで何でも描く方式ではなく、決まった形をひとつずつ点ける方式だからで、電卓の数字表示と同じ作り方である。
同じ作り方、と言うときの電卓の側にも年数がある。シャープが世界初の液晶表示電卓EL-805を出したのは1973年、液晶電卓の量産が始まったのも同じ1973年で、ボールの1980年4月はそこから7年後にあたる。7年ぶんの量産をくぐった表示方式なので、任天堂の側で新しく起こすものは少なく、決めるべきことは液晶をどう作るかではなく、電極をどんな形に焼くかという版の中身のほうに寄っていた。着想の起点として伝わっているのも、電卓で遊ぶサラリーマンの姿である。遊ぶために設計された画面ではなく、数字を出すために磨かれた画面が、そのまま遊びの土台に回されている。
キャラクターが取りうる位置は、電極を焼く前に決まっていた。ゲームデザインが製造工程に先立つのではなく、製造工程がデザインの上限を決めるので、球が落ちる軌道を1本増やしたければ、プログラムではなくパネルの版を作り直すしかない。この順序は、いまのゲーム開発とは逆向きである。
ボールのGAME Aは999点で止まる。ただしこれを「版が決めた上限」と読むと、同じ1台のGAME Bが9,990点まで伸びることと合わなくなる。表示できる桁は版で決まるが、その桁をどう使うかは版の外側の話である。
同じ筐体、同じ液晶で、上限だけが10倍違う。9,990という数字は、末尾が0に固定された加算だったことを示している。
遊びの手数が電極のパターンで決まる機械を、当時の子どもは「単純だ」と思っていなかった。表示できる絵柄が有限だからこそ、次にどこが点くかを身体が覚え、覚えたぶんだけスコアが伸びる構造は、離散的な画面と相性がよかった。
ボタンを3個ぶん用意したら1個余ったので時計機能に回した、という趣旨の話が伝聞として流通している。ただし任天堂の公表資料には見当たらない。
その先にあるのは、セグメントの数は発売後に増やせないという事実だ。制約は開発中の判断材料であるだけでなく、製品が世に出たあとの遊びの上限として固定される。
テーブル筐体のCRTは、任意座標を描けた。
街側の機械は、まったく別の系譜にある。タイトー スペースインベーダーの1978年6月16日という日付は、発売日ではない。タイトー自身が1978年6月16日に当時のタイトー本社ビルで新作発表会を開いた時、初めて世に発表されました
「同年7月頃から出荷され」と書いている。業界紙『ゲームマシン』第102号(1978年8月15日)は「いよいよ発売になった」まずアップライト型が発表となった
と報じ、定価は59万円。発表と出荷と誌面が6月・7月・8月に分かれているだけで、資料が食い違っているわけではない。どこを取ってもゲーム&ウオッチの第1作より2年近く早い。
表示はラスタスキャンのCRTなので、走査線の上に任意の座標で輝点を置ける。液晶のように点灯できる絵柄が有限個ではなく、画面のどこにでも何でも描けるため、描画アーキテクチャとしての自由度はこの時点で液晶側を圧倒している。
ところが敵は格子で動く。初期配置は5段×11列の55体で、列を保ったまま横へ寄り、端に着くと1段降りる。
CRTは任意の座標を描けたにもかかわらず、敵は格子から出なかった。ハードの自由度とゲームデザインの拘束は別の問題であり、処理量と当時のメモリ、そして「群れ」を成立させる見せ方の都合が格子を選ばせたと考えられる。
敵が減るほど動きが速くなる挙動も、意図した難易度曲線ではなく、動かす対象が減ったぶん処理が軽くなったことによる副作用だとされる。設計の副作用が、結果として終盤の緊張をつくった。
この副作用は、55体という初期配置がそのまま速度の目盛りになっていたことを意味する。残り20体なら20体ぶんの処理しか要らないのだから、画面の速さはプレイヤーが撃った数に連動して上がり、上手い人ほど速い画面と向き合わされる。難易度を段階として先に設計し、あとから画面に載せたのではなく、撃つという行為そのものが次の1秒の難易度を書き換えていた。電極の版で位置も手数も焼き付けてしまう液晶側には、遊ぶ側の手つきで難しさが動くこの作り方ができない。
仕様の穴は、そのまま攻略に転化する。最下段まで敵を引きつけ、被弾しない位置に入る「名古屋撃ち」は、店の現場でプレイヤーのあいだに広まったとされ、呼称が全国へ広がる契機として挙げられるのが、1979年6月の『インベーダー攻略法——これであなたも10000点プレイヤー』(ヘラルド・エンタープライズ、500円)である。国立国会図書館の書誌で実在は確かめられる。ただしこの本が呼称を統一したという話の出どころは新聞記事1本で、そこでも浸透していったとみられている
と推量で書かれている。タイトー自身は誰がどこで始めたかは定かではありません
としている。活字が追いつく前に、技だけが先に回っていた。
置かれ方も忘れがたい。先に出たのは立って遊ぶアップライト型で、喫茶店の天板になる「T.T.スペースインベーダー」はその翌月である。『ゲームマシン』第104号(1978年9月15日)の見出しは発売待たれていたテーブルタイプ
。待たれていた、と当時の業界紙が書いていて、定価はアップライトが59万円、テーブルが46万円である。天板の下に基板とCRTが入っていて、上にはコーヒーが置かれる。1プレイ100円が、コーヒー代の隣に並んでいた。
TIPS
テーブル筐体は、什器として納品されていた。
喫茶店に入ったテーブル筐体は、天板の高さが什器として揃っている。灰皿とカップが置けて、座って肘をつける高さである。1プレイ100円で、当時のコーヒー1杯とほぼ同額。つまり店にとっては、席料を2回取れる家具だった。一方の任天堂 ゲーム&ウオッチは5,800円で、テーブル筐体58回ぶん。1台買えば、そのゲームは何回でも遊べる。同じ「ゲーム」という言葉で括られていた2つは、課金の設計からして別物だった。
AC-01の画面は、増やせない。
5,800円。任天堂が「ボール」に付けた値段である。同じ年、テーブル筐体は1プレイ100円だったので、58回ぶんで遊び放題の板が手に入る計算になる。発売は1980年4月28日、型番はAC-01。ACが何の略かは、任天堂の公表資料には見当たらない。続く任天堂 FL-02「フラッグマン」の1980年6月5日までは任天堂の公式年表に載っており、任天堂 MT-03「バーミン」の同年7月10日は公式年表には無く、収集家の資料による。
| ボール AC-01 発売年 | 1980年 | 4月28日 |
|---|---|---|
| ボール AC-01 価格 | 5,800円 | |
| GAME A スコア上限 | 999点 | |
| GAME B スコア上限 | 9,990点 | 桁が1つ多い |
| シルバーシリーズ 電源 | 2個 | ボタン電池 |
| フラッグマン FL-02 発売年 | 1980年 | 6月5日 |
| バーミン MT-03 発売年 | 1980年 | |
| ファイア 発売年 | 1980年 | |
| ジャッジ 発売年 | 1980年 | |
| マンホール 発売年 | 1981年 | |
| ヘルメット 発売年 | 1981年 | |
| ライオン LN-08 発売年 | 1981年 | シルバー/ゴールドの最後 |
| シルバー/ゴールドの型番帯 | 8機種 | 01〜08 |
| ワイドスクリーンの画面面積 | 1.7倍 | シルバー/ゴールド比 |
| クリスタルスクリーン 本体厚さ | 7mm | |
| オイルパニック OP-51 発売年 | 1982年 | 5月28日 |
| ドンキーコング DK-52 発売年 | 1982年 | 6月3日 |
| ドンキーコング DK-52 価格 | 6,000円 | |
| DK-52 中古買取価格 | 4,000円 | 2026年時点 |
| DK-52 未使用品 落札価格 | 47,551円 | |
| マリオ ザ ジャグラー 発売年 | 1991年 | シリーズ最終作 |
| シリーズ区分数 | 10シリーズ | |
| シリーズ展開期間 | 11.5年 | 1980年4月〜1991年10月 |
| 世界累計販売台数 | 4,340万台 | |
型番の読み方は、見た目ほど素直ではない。頭の英字は機種ごとに違っていて(AC、FL、MT、RC、IP、MH、CN、LN)、シリーズを表しているのは数字のほうである。シルバーとゴールドが01〜08、ワイドスクリーンが21〜30、マルチスクリーンが51〜65というように帯で割り当てられ、後期のシリーズでは3桁になる。
帯の中身を並べると、数字が何を指しているのかが見えてくる。01〜08はシルバーとゴールドの8機種ぶんで、任天堂のAC-01ボールに始まり、FL-02フラッグマン、MT-03バーミンと続いてLN-08ライオンで打ち止めになり、そこから21〜30のワイドスクリーン、51〜65のマルチスクリーンと、帯が変わるたびに画面の作りのほうが変わる。後期はさらに桁が増え、101〜108のニューワイド、201〜202のスーパーカラー、301〜303のマイクロVS.、801〜803のクリスタルまである。帯が切り替わる場所は、画面を作り直した場所である。1981年のワイドスクリーンはシルバーとゴールドに対して画面面積を1.7倍にしているが、この1.7倍は同じ1台の中では起こせない種類の変更であり、広い画面が欲しければ新しい帯を起こすしかなかった。
5,800円
シルバーシリーズの価格
8機種すべて同額。1台に1ゲームという単位が、値段を固定した。
型番が帯で割り当てられていたように、値段も機種ごとではなく帯で決まっていた。
5,800円という数字はいまの物価感覚に翻訳しにくいものの、小学生の小遣いの範囲で気軽に買える額でなかったことは、当時この価格帯を通った人間ならすぐ分かる。誕生日かクリスマス、年に一度の一発である。
交換式ROMカートリッジの家庭用機はすでにあったが(アタリVCSはロムカートリッジ交換式として1977年に出ており(Computer History Museum の年表による)、エポック社カセットビジョンが1981年)、ゲーム&ウオッチはその機構を持たなかったので、1台買えばそこに入っているゲームは1本だけで、2本目が欲しければ機械そのものを買い足すことになる。この構造は、のちの4,340万台という総販売台数が積み上がる一因になったと考えられる。
操作系は左右2ボタンで、入力は2値がふたつ、それだけである。電源はボタン電池2個でLR43/SR43相当とされるが、任天堂の当時の資料には型番の記載が無い。腕時計用の汎用電池を流用していれば、専用の電源部品を起こす必要がない。
この電池まわりは、いま手元にある1台がいつのものかを分ける場所でもある。ボールは2010年にクラブニンテンドーの景品として復刻されていて、外から見たかたちは当時物とよく似ているものの、背面の刻印と電池の種別でどちらかを判別できるとする確定した資料は見当たらない。
TIPS
発売日は、出どころで格が違う。
ゲーム&ウオッチの発売日には、任天堂の公式年表で引けるものと、収集家の資料にしか無いものが混ざっている。MT-03バーミンの1980年7月10日は後者で、一覧に並べて書かれてしまうと、見た目からはどちらの出どころか分からない。だから日付を拾ったら公式年表を先に引き、載っていなければ「収集家資料による」と添えたまま持っておく。年表に無いことは誤りの証拠ではないので、日付そのものを捨てる必要まではない。出どころを二段に分けておけば、人に渡すときも、あとから確かめ直すときも手が止まらない。
そして時計とアラームが入っていた。「ウオッチ」という名の根拠であり、同時に、学校へ持ち込むときの口実でもあったが、時計を持ってきただけだという理屈がどこまで通ったかは、家庭と担任によって違う。
任天堂 ファミリーコンピュータの発売は1983年7月15日で、ボールから3年2か月半ある。この3年余りは、交換式の家庭用機と「1台1ゲーム」の携帯機が並んで売られていた時期にあたる。
買い足す遊び方は、工程が決めた。
1台につき1つの遊びしか入っていないのだから、別のゲームが欲しければ本体ごと買うことになる。台数の側から見ると、この構造の意味が変わる。4,340万台という数字は、4,340万人が1台ずつ買った数ではなく、同じ人間が複数台を買った結果を含んでいる。
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部品を選んだ時点で、勝負はついている。
金型が遊びの上限を決めるという順序は、外から見ているだけでは推測にとどまる。部品選定の段階で何が決まってしまうのかを、整理された形で読める一冊がある。
部品選定の段階で勝負がついているという設計論の側面を、整理された形で読める。
ものづくりのイノベーション 「枯れた技術の水平思考」とは何か
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1982年6月3日、マルチスクリーンシリーズの「ドンキーコング」が出る。この日付は任天堂の公式年表にある。第1作は同年5月28日の「オイルパニック」とされるが、こちらは公式年表に載っておらず、収集家の資料による。型番DK-52、価格6,000円で、ボールの5,800円から2年で200円しか上がっていないにもかかわらず、画面は2枚になっている。
任天堂は公式にこのシリーズから方向入力に初めて十字キーが登場しました
と書き、例としてドンキーコングを挙げている。ただしマルチスクリーンの第1作とされるオイルパニックは左右ボタン式なので、十字キーが最初に載ったのがドンキーコングだったとしても、それはシリーズの第1作という意味ではない。離散的にしか動けない液晶画面に対して離散的な入力を与える——という説明は形が整っているものの、ただし採用理由を任天堂が語ったことはないので、説明の形が整っているというだけの話になる。
シリーズの世界累計は4,340万台とされるが、この数字がどこまでを数えたものかは示されていない。国内と海外の別も、シリーズ別の内訳も、海外版名義での重複の扱いも不明のままである。どこまでを数えた数字なのかは、示されないままになっている。
4,340万台
ゲーム&ウオッチ シリーズ世界累計販売台数(1980-1991年)
集計範囲(国内/海外、シリーズ別内訳、海外版名義の重複)は示されていない。
数字の内側にあるのは、機種を買い足す遊び方である。1台1ゲームだから、遊びたいゲームが増えるたびに機械そのものを買う。液晶の絵柄が電極のパターンで固定されているのだから当然の帰結で、ソフトを入れ替える余地が物理的にどこにもない。
買い足させる側も、中身のゲームを入れ替えただけではない。1983年のパノラマスクリーンは、筐体に組み込んだ鏡で自然光を反射させて画面を照らす方式を採っていて、絵柄そのものではなく光の回し方のほうを変えている。版で絵柄が固定されている以上、驚かせる余地は画面の大きさ、枚数、光の当て方といった外側にしか残らないので、新しい機種を買う理由も、遊びの種類ではなく画面の作りの側から出てくることになる。
ファミリーコンピュータは1983年7月15日、14,800円。ゲーム&ウオッチ約2.5台分の値段で、ゲームは1本も入っておらず、代わりにカセットを差す。買い足す対象が機械からカセットに移った瞬間に、単位が変わった。
38か月
ボールからファミコンまでの月数
3年2か月半。1台1ゲームが成立していた期間にあたる。
買い足す先が変われば、財布の出方も変わる。
シリーズは1980年4月28日の「ボール」から1991年の「マリオ ザ ジャグラー」まで、海外向けを含めて約11年半続いた。最終作が1991年であることは任天堂の公式年表にある。10月14日から数えると、11年5か月半。ただしこれは世界での話で、日本で売られたものだけを数えると1985年2月で終わり、約4年10か月にしかならない。ファミコンが出た1983年7月のあとも、海外では8年続いた。置き換えられて消えたのではなく、別の棚として残ったわけで、ポケットに入る大きさと電池2個で動くことは、テレビの前でしか成立しない機械には真似ができない。
国内の最後の1台にも型番が付いている。BJ-60「ブラックジャック」の1985年2月15日で、これも公式年表ではなく収集家の資料によるものだが、日本の棚が閉じたあとも型番の体系はそのまま使われ、海外向けに新しい番号が振られ続けた。
なお、ゲーム&ウオッチの利益で借金70億円を返済し40億円の黒字を出した、という話が流通しているが、出典はwiki系に限られ、有価証券報告書にも社史にも見当たらない。金額として当てにできる数字ではない。
確かなのは、シリーズが1991年に終わっているという一点で、以後に台が足されることはないのだから、いま手に入るのは11年半のあいだに売られた現物に限られる。
TIPS
値は、本体よりも付属品で動く。
電子ゲームの中古は、本体の状態より付属品で値が動くことが多い。シルバーシリーズは8機種すべて5,800円で並んだが、いま揃えようとすると機種ごとに差がつく。1980年4月28日のAC-01から1981年4月27日のLN-08まで、1年のあいだに8機種が出ているので、発売順に集めたくなるのも分かる。箱、説明書、当時の保証書が揃っているかを先に確認したほうが、判断が早い。
あとから遊びを足せる作りではなかった。遊びを増やす方法は、機械を1台足すことしかない。4,340万台という累計は、そういう数え方の上に乗っている。
電極が決めた上限。
1980年4月28日のAC-01と、1978年9月のテーブル筐体。同じ「ゲーム」と呼ばれた二つの機械は、描画の作り方が根本から違っていた。片方は電極のパターンで絵柄の位置を有限個に固定し、もう片方は走査線の上に任意の座標を描いた。自由度が高いほうが面白かったわけではない。5段×11列の格子が40年以上語られ、999点の上限が身体に残っている。
100円玉が本当に街から消えたのかどうかは、造幣局の年銘別製造枚数と業界紙の出荷実数を並べない限り分からない。
次の一手は1つだけ。手元に当時物が残っているなら、電源を入れる前に電池室の蓋を開けて端子を見る。40年分の結論は、液晶ではなくそこに出ている。ボールがまだ飛ぶかどうかは、端子の状態で決まる。