1967年、ワークスは技術を一段戻された。
S20型の話は、S20が作られる前の後退から始まる。
1965〜1966年シーズン、プリンス系のワークスはS54型スカイラインGTの搭載エンジンに手を入れていた。市販のG7型は吸気と排気が同じ側にあるカウンターフローのSOHC。ワークス用として用意されたのは、吸気と排気を左右に振り分けたクロスフローのヘッドだった。市販車とワークス車で燃焼室とガス交換の思想が別物になっていた期間が、この2シーズンにあたる。
それが1967年、レギュレーション改正でG7型に戻される。クロスフローのヘッドを外し、カウンターフローSOHCへ回帰した。手にしていた技術を、規則の側から取り上げられた形になる。一度上がったものを下ろす作業は、上げるときより気持ちの置き場所が難しい。
S20の開発は、この後退の直後に立ち上がる。ベースになったのは、プリンス自動車工業 R380に積まれた1966年前後のレース専用エンジン、GR8型である。これは市販車のエンジンを速くしたのではなく、レース専用エンジンを市販車に降ろす方向で設計された。プリンス社内での呼称はGR8B型。日産との統合後に、S20という日産式の型式名が与えられている。
結果として、国内量産車で1気筒4バルブDOHCが成立した。ヘッドの中に吸気2・排気2のバルブを収め、2本のカムで直接叩く構成である。1969年の国産乗用車の標準が何だったかを思い出せば、この構成が置かれていた位置は分かる。
82.0×62.8mm——比1.306が7000rpmを決めている。
S20型の排気量は1989cc(1969年の発売時公称値)で、当時の2000ccクラス上限に11cc残して張り付けた数字である。ボアは82.0mm、ストロークは62.8mm、この2つを割ると1.306になる。
ストロークが短いほど同じ回転数でのピストン平均速度は下がるため、62.8mmという短さは、回転を上げても往復運動部の負担が積み上がりにくいことを意味する。一方でボア82.0mmという口径は燃焼室の平面積を稼ぐので、1気筒4バルブという構成が成立するのはこの口径があってこそで、バルブを4枚並べる面積がそもそも足りていなければ意味がない。
最高出力は160PS/7000rpm、最大トルクは18.0kg-m/5600rpm(いずれも1969年の発売時公称値)だが、注目すべきはトルクピークが5600rpmという高さにあることで、低速で粘る性格を最初から捨てている。7000rpmで出力の頂点を打つエンジンとして、ボアとストロークの比から一貫しており、圧縮比も9.5:1として語られてきた。
| 型式 | S20型(プリンス自動車工業の社内呼称はGR8B型) | |
|---|---|---|
| 種類 | 水冷直列6気筒 DOHC 24バルブ | |
| 総排気量 | 1,989cc | |
| 内径(ボア) | 82mm | |
| 行程(ストローク) | 62.8mm | |
| ボア/ストローク比 | 1.31 | 算出値1.306。1を超えるショートストローク |
| 圧縮比 | 9.5:1 | |
| 1気筒あたりバルブ数 | 4本 | 当時の市販車では稀 |
| 最高出力 | 160PS | 7,000rpm |
| 最大トルク | 18kg-m | 5,600rpm |
| リッターあたり出力 | 80.4PS/L | 算出値 |
| 動弁機構 | DOHC・カムシャフト2本。駆動はチェーン(GR8はギア駆動) | |
| 燃料供給方式 | ミクニ・ソレックス N40PHH ツインチョーク キャブレター×3基 | |
| 点火方式 | フルトランジスタ | |
| 潤滑方式 | オイルパン(ウェットサンプ)。GR8のドライサンプから変更 | |
| 潤滑油量 | 6L | |
| 冷却方式 | 水冷 | |
| シリンダーヘッド材質 | アルミニウム鋳造 | |
| シリンダーブロック材質 | 鋳鉄・ウェットライナー | |
| エキゾーストマニホールド形式 | ステンレス等長。3気筒×2本 | |
| 乾燥重量 | 199kg | |
| 生産開始 | 1969年1月 | |
| 生産終了 | 1973年3月 | 1972年とする資料もあり一致していない |
| エンジン単体価格 | 70万円 | 当時。車両価格154万円の約45% |
レース用エンジンを公道へ降ろすにあたって、どこまで落としたかを示す数字である。ハイオクを前提にした値で、レギュラー仕様はここからさらに下がる。街で使う燃料に合わせて、もう一段きつく締めたことになる。
キャブレターは三連装。直列6気筒に対してキャブが3つという構成で、吸気を3つに分けて配るという形そのものが、レース用の設計をそのまま降ろした跡である。吸気を3つに分けて各気筒へ配るという構成そのものは、残っている実車の写真から確かめられる。
同じS20でも、燃料で数字が変わる。ハイオク前提の公称が160PS/7000rpmで、レギュラー仕様は155PS、最大トルクは17.6kg-m。5PSの差が、タンクに入れるものの違いで付く。
エンジン単体の乾燥重量は199kgで、潤滑油は6.0L入る。1気筒あたり4つのバルブとツインカムを抱えた鉄のかたまりが、200kg近い。これを前輪の上に載せているので、ハコスカGT-Rの前後重量配分は、見た目のバランスよりも鼻先が重い側に寄る。
3気筒×2本の等長エキマニと、ポート段差の手研磨。
排気側の構成が、このエンジンの性格を最もよく表している。エキゾーストマニホールドは6本を1本に集合させるのではなく、3気筒ずつ2本にまとめてある。効いているのは、3気筒×2本という分け方である。直列6気筒の点火順序では、前3気筒と後3気筒をまとめると排気の間隔が等しく並ぶ。この分け方には、音の前に理屈がある。
直列6気筒の点火順序では、前3気筒と後3気筒をそれぞれまとめると排気の間隔が均等に並ぶため、等長にする意味が出てくる。各気筒の排気パルスが集合部に届くタイミングが揃えば、次の気筒の排気が抜けるときの負圧が使えるからで、長さを揃えるという作業は単に「見栄えのする取り回し」の話ではない。
ポートも同じ思想で処理されている。S20の組立工程には、ヘッドのポートとインテークマニホールドの合わせ面に生じる段差を研磨で除去する作業が含まれていたとされる。鋳物の位置公差で必ず出るわずかな段差を手作業で消すのは、段差が流れの剥離を生み、剥離が充填効率を落とすためで、7000rpmで吸気の慣性を使い切る設計なら、その段差は無視できない。
これを市販工程に入れた結果が、1日4基である。工場ではなく、工房の速度である。
1日4基という速度は、生産台数の総数と桁で並ぶ。ただし稼働日数や試作分の扱いが分からないため、掛け算での検算はできない。日産 PGC10(4ドアセダン)が832台、KPGC10(2ドアハードトップ)が1197台、合計2029台。1969年から1972年9月までの約3年半で、この数である。
70万円と154万円——車両価格の約45%が心臓だったという話。
PGC10のセダンは1969年の発売時価格で150万円、1970年10月に追加された2ドアハードトップのKPGC10は154万円で、セダンより4万円高い。
この154万円のうち、エンジン単体が70万円。割合にして約45%になり、車両の半分近くが心臓の値段だったことになる。セダンとの差額4万円が車体側の違いだとすれば、買う側が払っていたものの重心は、明らかに前にあった。
TIPS
3気筒×2本という構成が、音を決めている。
S20型のエキゾーストマニホールドはステンレスの等長で、3気筒ずつ2本にまとめてある。長さの揃った排気管は、回転が上がったときの音が濁らない。160PS/7,000rpmという公称値より、この構成のほうが体感に効く。レース用のGR8型は226PS/8,400rpmだったから、市販車のS20は66PSぶんデチューンされた計算になるが、音のほうは降ろしきれなかった、という言い方もできる。現車に触れる機会があれば、諸元表より先に音を聞くほうが早い。
それでも、この比率が語り継がれてきた理由は工程から説明できる。ポート段差の手研磨と熟練工による組み立てを、市販エンジンの工程に残したまま量産した。手を動かした時間がそのまま原価に乗る構造で、削りようがない。1日4基という生産速度と車両価格の45%という比率は、同じ現象を別の側から見た数字と考えられる。
実車個体の車台番号を見ると、生産ペースの手触りが少し掴める。KPGC10-000206という個体は初年度登録が1971年1月で、2ドアハードトップの追加が1970年10月だから、3か月ほどで200番台に入っている。車台番号の記号体系はKが2ドアハードトップ、PがS20搭載を示すとされ、この判別は現存個体の見極めに直結する。記号体系そのものの出どころは、第7回で扱う。
カムとキャブを替えると200PS前後まで出た、という数字も残っており、公称160PSからの上積みは40PSにあたる。手を入れる余地がそれだけ残してあったということでもあり、レース用エンジンを市販に降ろすというのは、こういう余白ごと降ろすことだった。
「1972年の排ガス規制」が指しているもの。
KPGC10の生産終了は1972年9月で、日産 C110型へのモデルチェンジによる世代交代である。
一方、新車に対する規制の実質的な節目は昭和48年——1973年4月1日以降生産分であり、環境白書に明記されている。根拠となった答申は昭和45年7月22日付の運輸技術審議会答申で、公害国会と同じ年に出ており、規制値本体の告示は昭和49年1月の環境庁告示第1号にあたる。
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49連勝という数字を、自分で確かめ直すなら。
本記事で三つに分かれたままにした連勝記録は、Racing On 444号が49勝の内訳を分解して46勝説を提示したことが出発点になっている。数字の当否をここで決めない代わりに、出所そのものを読めるようにしておく。実車個体の仕様差や車台番号の記述は、ノスタルジックヒーローのバックナンバーに写真付きで蓄積されている。
並べると順序が逆で、1973年4月1日の新車規制が始まる約7か月前に、KPGC10の生産ラインは止まっている。「排ガス規制がハコスカGT-Rを殺した」という説明は広く流布しているが、少なくとも新車規制の施行日とKPGC10の生産終了日の関係は、因果の順序として成立しない。生産終了の理由がモデルチェンジだったのか、規制を見越した判断が含まれていたのかは、日産の社史・公式記録での確認が必要であり、今回は断定しない。
では「1972年の排ガス規制」という言い方は何を指しているのか。時期がいちばん近いのは使用過程車のCOアイドリング規制だろう。昭和45年8月1日から普通・小型自動車で5.5%だった上限が、昭和47年10月1日から4.5%へ引き下げられており、これはKPGC10の生産終了の翌月にあたる。
ただしこれは、新車の型式認定を左右する規制ではない。走っているクルマの側にかかる基準である。「1972年」という年号を規制とセットで覚えている人は少なくないが、その年に動いたのはこちらだった。
技術的に重かったのは、その先である。昭和48年規制では、それまでCO中心だった試験項目がHC・NOxへ拡大したため、多連キャブレターと大きなバルブオーバーラップを持つカムの組み合わせは、まさにHCとNOxで不利になる。吸排気が同時に開いている期間が長ければ未燃焼分が排気側に抜けるし、高圧縮・高燃焼温度はNOxを増やす。S20が最も苦手な項目が、後から試験に加わった構図になる。
さらに昭和50・51年規制ではCO・HC・NOxを1/10以下に削減する目標が置かれたが、この桁の要求に、キャブレター多連+高オーバーラップカムで応える道筋は見えにくい。同じ2000ccクラスで、ロータリー勢は別の解で規制を越えていくが、この分岐の技術的な整理は第6回で扱う。
後継の日産 KPGC110、いわゆるケンメリGT-Rは1973年に197台。初代の2029台と並べると、桁が一つ違う。この年は排出ガス規制の強化が進んだ時期にあたる。
TIPS
生産終了と規制の適用開始は、一致しないことが多い。
S20型の生産は1969年1月から1973年3月とされるが、1972年で終わったと書く資料もあって、そこは揺れている。KPGC10の生産終了は1972年9月、KPGC110は1973年に197台。規制の話をするなら、どちらが先だったかを並べるだけで筋が変わる。ちなみに1日あたりの生産数は約4基。3年半でおよそ4,000基という数え方になるので、「規制で止まった」というより、もともと工場ではなく工房の速度だった。
数字が三つに分かれている——連勝記録の扱い方。
S20の評価と不可分なのがレースでの連勝記録だが、ここも数字が一つに定まっていない。
プリンスの丘公園の記念碑には50連勝と刻まれており、雑誌・広告・映像作品で最も広く流通したのは49連勝、そしてRacing On 444号は、49勝のうち18勝がクラス優勝であることを踏まえ、1971年7月25日を境に連勝は46で止まると指摘した。中断の原因となったレース名と順位は、はっきりしない。
三つの数字が併存する理由は勝ち数の水増しではなく「連勝」の定義であり、総合優勝とクラス優勝を同じ1勝として数えるかどうかで答えが変わる。当時から曖昧だった定義を後から一つの数字に丸めてきた結果がこの三つの併存で、いずれもJAF公式リザルトと当時のレース記録での照合が必要になるため、確定は第4回に譲る。
1972年10月の富士マスターズ250キロでは、GT-Rの最高順位は4位。KPGC10の生産終了の翌月にあたる。
出力の数字も同じ構造で三段になっており、カタログの公称値は160PS/7000rpm、キャブレターとカムを交換した状態で200PS前後、機械式インジェクション化されていたとされるワークス仕様で250〜260PSとなる。
「10000rpm常用で壊れない」という言い方も同じ構えで読む。市販車の公称最高出力回転は7000rpm、10000rpmはワークス運用の側の数字である。同じ型式が担った幅を、ひとつの数字に畳まない。
ボアアップの実例が1つある。現代のサーキット仕様として2484cc・圧縮比12:1まで手を入れられたS20が存在し、ノーマルの1989ccに対して約1.25倍の排気量になる。連勝が50か49か46かは、数え方の問題として残った。いま回っているこの1基のボアとストロークなら、実車を開ければ測れる。
S20が残したもの。
S20型の手前には、後退がある。1967年のレギュレーション改正でクロスフロー化されたワークス用ヘッドを取り上げられ、G7型のカウンターフローSOHCに戻された。その翌年、R380用のGR8型を市販車に降ろす形で1気筒4バルブDOHCが成立している。レースで取り上げられたものを、市販車に降ろす形で取り返している。ボア82.0mm、ストローク62.8mm、比1.306。7000rpmで160PS。ポート段差を手で研磨し、1日4基。車両154万円のうち70万円がエンジン。この比率は、その工程の裏返しである。
そして時系列。KPGC10の生産終了は1972年9月、新車に対する昭和48年規制の施行は1973年4月1日以降生産分。規制の線が引かれる約7か月前に、生産の線は途切れている。「排ガス規制がハコスカGT-Rを殺した」という説明は、少なくとも施行日と生産終了日の順序では成立しない。規制の時期と重なるのは、197台で終わった後継のKPGC110のほうである。
持ち帰るものを1つに絞るなら、数字を見たときに「これはカタログの公称値か、ワークスの伝聞か、記念碑の刻字か」を確認する癖である。160/200/260PS、50/49/46連勝。どれも同じ対象について語られながら、根拠の強度が違う。次の1歩としては、圧縮比・車両重量・キャブ型番の一次値を当時カタログの復刻資料で自分の手元に置くこと。通説の照合は、そこから始まる。