1975年10月1日、改正されたのは「免許」ではなく「条件」だった。
1975年10月1日、道路交通法施行規則の一部改正が施行され、自動二輪車免許に小型限定(125cc以下)・中型限定(400cc以下)・限定なしの3区分が導入された。
正確に押さえておきたいのは、免許の種類が3つに割れたのではないという点だ。運転免許の種類としては「自動二輪車免許」が1種類のまま存続し、そこに付す条件(限定)として排気量の上限が書き込まれたので、免許証の裏面あるいは表面の条件欄に「中型二輪のみ」に相当する一行が入る。それだけである。
この構造の違いは、体感としては些細だが、法的帰結としては決定的だった。免許の種類が異なる車両を運転すれば無免許運転になるのに対し、免許に付された条件に違反しただけならそれは条件違反にとどまる。中型限定の免許証を持ってナナハンに跨がった行為は、1975年から1995年までのあいだ、免許を持たない者の運転とは別の枠に置かれていた。
量刑については、諸説あるが違反点2点・罰金6000円という数字が挙げられている。ただしこの数値の出典は掲示板の書き込みであり、当時の法令・通達での一次確認には至っていないため、断定はしない。断定できるのは、条件違反と無免許運転が法的に別カテゴリだったという構造そのものである。
1995年の改正で自動二輪車免許は廃止され、大型自動二輪車免許と普通自動二輪車免許の2種類に分割されたことで、ここで初めて条件による分断が免許種類そのものの分断になり、同じ行為の帰結が条件違反から無免許運転へ跳ね上がった。なお無免許運転の違反点数が25点になるのは2013年改正以降で、1995年当時は別の値だった。分断は1975年に始まり、1995年に完成した二段構えである。
なお1995年改正については、施行日と指定教習所での大型二輪教習開始時期をめぐって「1996年施行・1997年教習開始」「1995年制定」と記述が食い違い、決着していない。制度の日付が20年で曖昧になる程度には、この改正は生活史の側に沈んでいる。
段階的に閉まった扉——1972年の小型自動二輪から数える。
1975年の3区分化は突然の断絶ではなく、それに先行して1972年には125cc以下の小型自動二輪免許が新設されており、二輪免許の細分化は段階的に進行していた。
つまり1975年の区分化は、この段階的な流れの延長線上にあり、二輪という乗り物を排気量で階層化する発想はすでに3年前から制度に入っていた。1975年に起きたのは、その階層の一番上に壁が立ったことだ。400ccという線が引かれ、その上に行くには別の試験が必要になったが、ではなぜ境界が400ccだったのか。
当時の日本市場には350〜400ccクラスの主力車が並んでおり、その並びの上端に線が引かれたことになる。商業の側の事実と、行政の側の事実が、同じ数字のところで重なっている。
結果として、この線は世界的には例外的な市場を作った。中型限定——通称「中免」——が成立させた400ccクラスという日本固有のカテゴリは、1970年代半ばから1995年半ばまで、約20年にわたって国内二輪市場の中心に座り続けたが、輸出には要らない排気量である。免許制度が需要を作り、需要が車体を作った——と読める順序になっている。
10ccのために1PSを削る——条件欄が設計図を書き換えた。
制度が車体に直接手を入れた例が、ホンダ CB400FOURである。
国内発売は昭和49年(1974年)12月、総排気量408cc、最高出力37PS、当時価格32万7000円。この時点では免許に排気量の限定がなかったので、408という数字に何の問題もなかった。
1975年10月1日の3区分化で、408ccは中型限定の枠外に落ちた。400cc以下でなければ中免ユーザーは買えないため、ホンダは1976年3月、排気量を398ccに落とした仕様を出す。最高出力36PS/8,500rpm、最大トルク3.1kg-m/7,500rpm。10ccのために1PS削った、と書けば身も蓋もないが、実際に削られたのは1PSである。
変更は排気量だけではなく、398cc版のフレームは日本市場向け専用で、「くの字型」に曲げられたパイプを持ち、そこにタンデムステップが付く。フレームはダウンチューブとクレードル部でパイプ径が違う。外装では車体色にパラキートイエローが加わってバーニッシュブルーが落ち、サイドカバーがタンク同色からブラックへ変わった。
ハンドルも世代で違い、FOUR-Iは幅705mm・高さ約40mmのセミフラット、FOUR-IIは幅780mm・高さ約111mmのスタンダードで、40mmと111mmという高さの違いに、前傾姿勢の差がそのまま出ている。
ここで効くのは10ccという差の意味で、408と398の実走差を体感できる人間はほとんどいないにもかかわらず、設計は変わり、部品番号は分かれ、車体色まで入れ替わった。走りではなく、免許証の条件欄に合わせるための設計変更だった。
出力を落としてでも、線の内側に入る必要があった。
| 408cc版 エンジン型式 | CB400FE型 | |
|---|---|---|
| 398cc版 エンジン型式 | CB400E型 | |
| 種類 | 空冷4ストロークSOHC直列 | |
| 408cc版 総排気量 | 408cc | |
| 398cc版 総排気量 | 398cc | |
| 排気量の差 | 10cc | 中型限定の枠に入れるための差 |
| 408cc版 内径(ボア) | 51mm | |
| 398cc版 内径(ボア) | 51mm | ボアは変えていない |
| 408cc版 行程(ストローク) | 50mm | |
| 398cc版 行程(ストローク) | 48.8mm | 縮めたのはこちら |
| ストロークの差 | 1.2mm | この1.2mmで10ccを落とした |
| 408cc版 圧縮比 | 9.4:1 | |
| 408cc版 最高出力 | 37PS | 8,500rpm |
| 398cc版 最高出力 | 36PS | 8,500rpm |
| 出力の差 | 1PS | 10ccのために削った分 |
| 408cc版 最大トルク | 3.2kg-m | 7,500rpm |
| 398cc版 最大トルク | 3.1kg-m | 7,500rpm |
| 変速機 | 常時噛合式リターン | |
| 全長 | 2,050mm | |
| 全幅 | 705mm | |
| 全高 | 1,040mm | |
| 軸距 | 1,355mm | |
| 燃料タンク容量 | 14L | |
| 乾燥重量 | 185kg | |
| 408cc版 発売 | 1974年 | 1974年12月5日 |
| 398cc版 発売 | 1976年 | 1976年3月6日 |
| 2つの発売の間隔 | 15か月 | その間に免許制度が変わった |
| 生産終了 | 1977年 | |
| 398cc版(I/II)生産台数 | 6,213台 | |
| 当時価格 | 327,000円 | 1974年 |
408と398の違いは、いま図面で確認できる。復刻されたサービスマニュアルやパーツリストは、部品番号の差と日本市場向けフレームのタンデムステップ部を、文章ではなく線で見せてくれる。
部品番号が分かれているということは、408と398が別部品として管理されていたということであり、その分岐は品番の一覧を追えば一行ずつ確認できる。
中古市場には、この10ccの痕跡がいまも残っている。流通する408ccの多くは北米・欧州向けの輸出モデルで、国内408ccは少数であり、2025年に確認された国内408cc個体の販売価格は330万円という水準にある(相場は動く)。さらに厄介なのが「408ccエンジン搭載+398cc公認登録」という車両で、車検証の型式・類別区分番号の記載を突き合わせないと素性が読めない。制度に合わせて縮めた10ccが、40年後の書類審査に残っている。
38万5000円が指し示す10年——CB750FOURとZ400FX。
免許の線が市場に何をしたかは、価格を並べると輪郭が出る。
1969年のホンダ CB750FOUR(K0)は総排気量736cc、最高出力67PS/8,000rpm、当時価格38万5000円で、国内ビッグバイクの起点である。初期型はクランクケースとオイルパンが砂型鋳造だった。極初期の約7,400台がこれにあたり、エンジンナンバー1007415から金型鋳造へ変わっている。国内仕様の型式はK0/K1/K2/K4/K6/K7で、K3とK5は国内に存在しない。欠番の理由は年次改良の周期や型式認定の都合でも起こりうるため、ここから輸出優先の体制まで読み取るのは行き過ぎだろう。
10年後の1979年に出たカワサキ Z400FX(E1)は、総排気量399cc、最高出力43PS/9,500rpm、最大トルク3.5kg-m/7,500rpm、当時価格38万5000円だった。
736ccの起点から10年後に399ccのミドルクラスが同額の値札を付けたわけで、物価上昇を考えれば当然という説明もできるが、読者が跨がった記憶の側では、10年で排気量が半分になっている。
Z400FXの成立は、CB400FOURと対照的だ。CB400FOURは日本市場専用フレームを起こして398ccを作り、2年で生産を終えた(生産終了年については1976年・1977年・「約2年半」と記述が混在しており、決着していない)。対してZ400FXは、輸出向けのカワサキ Z500のボア・ストロークを変更して399ccに落とし込み、輸出モデルと部品を広く共用している。日本の免許制度に合わせながら、専用開発の負担を輸出車と分け合う形になっているわけで、DOHC直4をこのクラスに載せられたのは、この共用があってのことだろう。
乾燥重量については出典間で不一致があり、諸元表の版によって189kgと192kgに分かれる。この程度のズレが残るのが、1979年の車両を2020年代から見るということだ。
Z400FXは最終型E4B(1982年12月)で43万5000円。398/399という数字は、免許の線が引かれてから7年で、市場の主戦場になっていた。
| CB750FOUR K0 排気量 | 736cc | 1969年 |
|---|---|---|
| Z400FX E1 排気量 | 399cc | 1979年 |
| CB750FOUR K0 最高出力 | 67PS | 8,000rpm |
| Z400FX E1 最高出力 | 43PS | 9,500rpm |
| CB750FOUR K0 当時価格(万円) | 38.5万円 | 同額 |
| Z400FX E1 当時価格(万円) | 38.5万円 | 同額 |
398という数字を持つ車両を、机の上に置くという選択肢もある。1976年3月以降の398cc版をベースにした1/12キットは、サイドカバー黒・当時物の手曲げショート管という、まさに免許制度が生んだ姿で立体化されている。
サイドカバーの黒は408cc版にはなく、398ccへの変更と同時に入った仕様なので、この塗り分けはそのまま1976年3月以降の車両を指す。
DUAD SELECT
398ccの姿を、机の上に置くなら。
サイドカバーが黒くなったのは1976年3月以降の398cc版から。そのディテールを持つ1/12キットが出ている。
398cc版(1976年3月以降)をベースにした新規金型キット。免許制度が生んだ398という数字の車両を、サイドカバー黒・当時物手曲げショート管という当時の姿で手元に置ける。
アオシマ ザ☆バイク 1/12 ホンダ CB400FOUR '76 カスタム
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統計の残っていない試験——限定解除審査の合格率、1%か5%か10%か。
条件欄の一行を消すための手続きが、限定解除審査である。指定教習所での教習が原則として存在しなかったため、運転免許試験場での技能審査に直接挑む道が主だった。
TIPS
10ccの差が、50年後の100万円。
業者間オークションの取引データ(2026年8月14日時点)で、ホンダ CB400FOURの1976年式398ccは平均186〜218万円、1974年式408ccは平均72.1〜120万円。ほぼ同じ車である。違うのは、398ccなら普通二輪で乗れて、408ccには大型二輪が要ること。免許証の条件欄に引かれた一行が、半世紀たっても値札の上で効いている。1PS削ったほうが高く売れる、という結末を、当時の設計者は想定していなかったはずだ。中古を探すなら、車体番号より先に排気量の刻印を見るといい。
その合格率は、いま調べても定まらない。「概ね全受験者の1%」「5%と言われた」「試験場によって差があり、高くて10%程度」——三つの説が並立しており、警察庁『運転免許統計』の該当年版で限定解除審査の受験者数・合格者数を確認するには至っていない。全国統一の公表数値には、現時点で未到達である。
諸説のうち一つを選ぶと、この幅そのものが消える。20年続いた制度の審査で、合格率という最も基本的な数字が1%から10%まで10倍の幅で語られているのだから、この幅そのものが限定解除審査の実像に近い。試験場ごとの運用差が大きく統計として集約されていなかったか、あるいは集約されていても市中の資料に降りてきていない。
伝聞として語られる話もある。沖縄県の1975年10月から1976年3月までの限定なし合格者は6名で、全員が白バイ隊員、民間人は0だった——という説だが、出典はコメント欄であり、事実としては扱えない。それでも、この話が語り継がれてきた事実自体が、当時の受験者が抱いた体温を伝えている。
残っているのは、所作のほうである。白いジェットヘルメットに黒い手袋、規定の靴という装備で、一本橋、スラローム、波状路、急制動に臨む。審査は装備の点検から始まり、コースに出る前に落とされることもあった。合格率の分母は、そこにいた全員である。
装備の様式だけなら、いまも再現できる。現行の安全規格に適合した白のジェットヘルメットは、当時の姿と現在の要求を両立させる。
もうひとつの天井——免許の上に、もう一枚。
読者が跨がった時代には、天井が二重にあった。免許による400/750の線と、その上に重ねられたメーカー側の自主規制である。
1969年のCB750FOUR登場以降、排気量がナナハンを超えるモデルは海外向けに限定する方針が続いたため、国内の上限は750cc前後で頭打ちになり、1976年にはホンダ CB750FOUR、ヤマハ GX750、スズキ GS750、カワサキ Z750と、日本4メーカーの空冷4ストナナハンが出揃ったが、免許の天井の上には、もう一枚の板があったことになる。
出力にも天井があり、1980年代の馬力自主規制値は50cc:7.2PS、125cc:22PS、250cc:45PS、400cc:59PSと定められていたが、1992年には250cc:40PS、400cc:53PSへ下げられており、数字が小さくなることを、ここでは強化と呼んでいる。レーサーレプリカが最も熱かった時期に、数字は下げられた。
排気量上限の自主規制が撤廃されたのは1990年で、撤廃後の運輸省型式認定第1号となったヤマハ VMAX1200の国内仕様は97PS/7,000rpm、対する輸出仕様は145PSだったから、同じ車体に48PSもの差が与えられていたことになるが、その差の一因は、国内仕様がV-BOOSTを持たなかったことにある。排気量の上限は外れても馬力の自主規制が残っていた時期にあたるが、そちらが撤廃されるのは2007年7月で、非採用の理由がそこにあったかどうかまでは分からない。
参照値として現在を並べると、スズキ GSX-S750は749ccで112PS、リッター換算149.5PS、これに対して1969年のCB750FOURは736ccで67PSだから、同じ排気量帯で出力は約1.7倍になったことになる。67PSが「国内最強」だった時代を経験した人間にとって、この数字の並びは説明を必要としない。ただ、開発コード代わりの略称が、その後20年以上にわたって「越えられない線の向こう側」を指す言葉になったという経緯は、免許と自主規制という二重の天井の話とよく噛み合っている。
TIPS
750の由来を、誰も文書で持っていない。
国内の自主規制が750ccだったことは知られているが、なぜ750だったのかを書いた公的な文書は見当たらない。排気量の上限が外れたのが1990年、馬力の上限が外れたのが2007年7月なので、その17年は日本だけが100PSの天井の下にいたことになる。しかも1992年には250ccが45PSから40PSへ、400ccが59PSから53PSへ引き下げられている。レーサーレプリカが最も熱かった時期に、数字は下がっていた。業界の申し合わせは、たいてい紙が残らない。
教習料金32,500円という個人証言の位置。
1970年代前半、千葉県で高校2年時に二輪免許を取得したという当事者の記述に、教習料金32,500円という数字がある。
それでも、この数字を1974年のCB400FOUR(408cc)の当時価格32万7000円と並べると比率が見えてきて、教習料金は車両価格のおよそ10分の1の水準にあったことになる。高校生が親に持ち出す交渉のスケールとして、この比率は生々しい。
1975年9月30日という日付が、その生々しさの中心にある。
裏の取れていない運用の上に、動かせない一日が乗っている。この構造をどう年表として組み立て直せるか——それが次回の主題になる。
条件欄が残したもの。
1975年10月1日に起きたのは、免許の種類が3つに割れたことではない。自動二輪車免許は1種類のまま残り、そこに小型限定(125cc以下)・中型限定(400cc以下)・限定なしという条件が付いた。中型限定でナナハンに跨がっても無免許運転ではなく条件違反にとどまる、という法的構造が20年続いた。1995年の改正で免許種類そのものが大型・普通に分割され、同じ行為が無免許運転へ移る。分断は二段構えで完成した。
この一行は、紙の上にとどまらなかった。排気量を削り、日本市場専用のフレームを起こし、値札を10年前の旗艦に揃える。どれもメーカーが自分で決めたことだが、決める理由のほうは免許の条件欄に書かれていた。いま中古で並ぶ1970年代の4気筒を見るとき、その排気量が何を避けて決まったのかは、諸元表のどこにも書いていない。