最初のF3は、F2の顔をしていた。
試作段階のニコン F3は、電子制御シャッターを積んだF2だった。公式のカメラ史連載Vol.3がそう書いている。つまり1977年の時点でニコンが作ろうとしていたのは中身の入れ替えであって、外側を作り直す話ではなかった。
| ニコン F3 発売年 | 1980年 | 3月 |
|---|---|---|
| ニコン F3 価格 | 175,000円 | 50mm F1.4付き |
| ニコン F3 ボディ質量 | 700g | |
| ニコン F3 寸法 幅 | 148.5mm | |
| ニコン F3 寸法 高さ | 96.5mm | |
| ニコン F3 寸法 奥行 | 65.5mm | |
| 外装の最終案が固まった年 | 1977年 | 後半 |
| ジウジアーロ 生年 | 1938年 | |
| 日本語公式が挙げる外装要素 | 4点 | |
| 英文公式が名前を挙げる仕事 | 2点 | 数え方が言語で違う |
| 赤い線の決定時期を書いた公式記述 | 0件 | |
| 公式が設計理由まで書いている項目 | 1項目 | 機械制御の1/60秒 |
| 機械制御で残された速度 | 60分の1秒 | |
| 使用電池の電圧 | 1.55V | G13/SR44 |
| MD-4 連続撮影速度 | 6コマ/秒 | |
| ニコン EM 発売年 | 1980年 | 3月。F3と同じ月 |
| ニコン EM 重量 | 460g | |
| ニコン EM 幅 | 134.5mm | |
| ニコン EM 高さ | 86mm | |
| ニコン EM 奥行 | 54mm | |
| ニコン EM 累計販売台数 | 153万台 | |
| ニコン FE 年間販売台数 | 25万台/年 | 1979〜1981年度 |
| ニコン FE 年間売上 | 100億円 | |
| キヤノン A-1 発売年 | 1978年 | 4月 |
| キヤノン A-1 価格 | 114,000円 | |
| キヤノン A-1 質量 | 620g | |
| キヤノン AE-1 PROGRAM 発売年 | 1981年 | 4月 |
| キヤノン AE-1 PROGRAM 価格 | 92,000円 | |
| キヤノン AE-1 PROGRAM 質量 | 565g | |
| オリンパス OM-10 発売年 | 1979年 | |
| オリンパス OM-10 ボディ価格 | 40,000円 | |
これは順序として理解しておく価値がある。F2は1971年の発売で、ニコンI以来はじめて全面新設計を求められた機種だった——交換ファインダーを含む基本骨格が、F2で一度作り直されている。その骨格に電子シャッターを載せれば、名目上はもう次のフラッグシップになるので、初期の試作がその形に落ち着いたのは自然なことだった。
ところが最終案が固まった1977年後半、そこには新機能と新しい外装の両方が伴っていた。設計開始を1977年3月とする記述も流布していて、仮にそうなら、着手から半年ほどで外側が別物になったことになる。
F(1959年)、F2(1971年)、F3(1980年)。フラッグシップの世代間隔は12年、9年と縮み、F3からF4(1988年)までは8年になった。20年に3回しか作り直さない製品で、外装を社外の人間に委嘱するという判断が、どこでどう下されたのか——その意思決定の経緯は公式資料に記述がなく、残っているのは結果のほうだけである。
もうひとつ、F3の開発は単線では走っていない。公式は、本体の改訂と並行してNASA向けのF3の開発が進んでいたと記している。宇宙に持っていく個体と、店頭に並ぶ個体。同じ骨格の上で、二種類の要求が同時に動いていたというわけだ。
公式が挙げるのは、4点である。
日本語の公式は、こう書いている。「カメラとモータードライブが一体となったデザインはイタリアのジョルジェット・ジウジアーロによるもので、シンプルなフォルムを追求し、ボディーにグリップのふくらみを設け、印象的な赤い線を入れた新鮮なデザインは、その後のカメラデザインに大きな影響を与えた」。挙がっているのは、モータードライブとの一体、シンプルなフォルム、グリップのふくらみ、赤い線——この4点である。
ところが英文の公式は、同じ仕事を違う数え方で書いている。カメラ史連載Vol.3が名前を挙げるのは2点だけである。"a holding grip in the front camera body"——ボディ前面のホールディンググリップ。そして "a synchronizing figure between the external motor drive and the camera body"——外付けモータードライブとボディが揃って見える造形。その先は "and other radical ideas"、その他の急進的なアイデア、と総称されてしまう。日本語で4つ立っているものが、英語では2つ+その他になる。同じ会社の公式が、言語をまたいだ途端に仕事の数え方を変えている——どちらかが間違っているのではなく、読者に向けて何を数えるかの基準が違う、ということになる。
数の差は、そのまま赤い線の扱いの差でもある。日本語版は赤い線を独立した項目として立て、英文の別ページ(Debut of Nikon F3)は "an impressive red vertical line that exerted a large influence on subsequent camera designs"——以後のカメラデザインに大きな影響を与えた、印象的な赤い縦の線——と書いている。ところがVol.3の列挙には入っていない。列挙する場所と、評価として言及する場所が分かれている。
ボディ前面のグリップ——日本語の公式は「ふくらみ」と書き、英文は concave section、へこんだ部分と書く。出っ張りと受け取るか、へこみと受け取るかが、言語をまたいだ途端に入れ替わっている——は、単独の造形ではなく、下にモータードライブのニコン MD-4が付いた状態での握りの連続性の中にある。公式は外装を「ボディとMD-4を一体として見たもの」と明記しており、つまり700gのボディだけを眺めても、設計の前提の半分しか見ていないことになる。
| ニコン公式が明示する仕事(前面グリップ/MD-4一体造形) | 2点 | 公式記述 |
|---|---|---|
| 総称で済まされた記述(その他の急進的なアイデア) | 1件 | 内訳なし |
| 赤い線の社内決裁・決定時期の記述 | 記述なし | |
| 設計理由まで公式が書いている項目(機械制御1/60秒) | 1項目 | 公式記述 |
そしてこのグリップについて、英文公式は範囲を限定しない書き方をしている。"the hand grip, which became a Nikon camera standard"——ニコンのカメラの標準になったグリップ、と書く。一方、赤い線のほうは "subsequent camera designs"、以後のカメラデザイン。こちらはニコン社内に限っていない。1980年の一台の前面に入った一本の線が、どこまで広がったと公式自身が考えているかは、この主語の置き方に出ている。
線を誰が引いたか、と、どこで決まったか。
外装を手がけたのがジウジアーロであることを、ニコンは公式に明記していて、その外装の要素として前面の赤い縦の線も挙げている。赤い線がジウジアーロの手による外装の一部であることに、争う余地はない。
公式が書いているのは、結果としての外装である。イタルデザインから何案が出て、日本光学工業がどれを選んだか——その過程は、残っているのが外装のほうだという一点に畳まれている。
公式は「印象的な赤い線を入れた」と書いていて、その主語はジウジアーロである。線を引いた手が誰のものかは、公式の記述の中にある。そこから先の、社内で案が通る過程のほうは、外装の形で残った。
赤い線の影響範囲について、公式は自社に閉じない書き方をしている。以後のニコン機に受け継がれただけでなく、後年のカメラデザイン全般に影響したと。メーカーが自社の一要素についてここまで広く書くのは珍しいが、四十年以上たったいまも赤いラインを入れたカメラが売られている以上、書き過ぎとも言い切れない。
グリップは、MD-4と一緒に設計された。
報道のグラビアで見たF3は、たいてい下に箱が付いていた。モータードライブのニコン MD-4である。連続撮影は6コマ/秒で、電源は単三電池8本。F2用のMD-2が4コマ/秒だったので、世代交代で2コマ/秒が上積みされたことになる。公式は自社の評価として「高速で、電池の保ちが良い」と書いている。
外装がMD-4装着状態で設計されたのなら、前面のふくらみは単体の握りやすさのためだけにあるのではなく、下に増える塊と指の関係の中で決まったことになる。ボディ単体は700g、寸法は148.5×96.5×65.5mm。ここにMD-4が加わった状態が、設計上の「正しい姿」だったことになる。
交換ファインダーとピント板は、外装に別の制約をかけた。標準のアイレベルファインダーはニコン DE-2で倍率0.8倍、交換ファインダーは4種、ピント板は19種。19という数を持つ製品は、上面が外れる構造を捨てられない。
ペンタ部が取り外せるという前提が、上面の造形を先に縛っていた。前面は自由に彫れても、上は外れなければならない。のちに高アイポイントのファインダーを載せたF3HPが出せたのも、この外れる前提が最初からあったからだった。
1/60秒だけ、機械で残した。
F3は電子制御シャッター機だが、1/60秒の1速だけが機械制御で残されている。理由まで明かされていて、使用電池の1.55V酸化銀電池——規格呼称でいうG13、現在のSR44に相当する——が当時は一部の地域で入手できなかったから、という説明になっている。
電池が買えない土地で電子シャッター機を売ると、電池が尽きた瞬間に全速が止まる。そこで1速だけ機械の逃げ道を残した。F3の設計判断で、公式が理由まで踏み込んで書いているのは、確認できた範囲でこの1点だけである。
技術的な機序としては単純で、電子制御は電磁石で後幕の走行開始を保持する方式のため、電源が落ちれば保持も解除もできなくなる。機械的なガバナで1速分だけ走らせる経路を別に持っておけば、露出は1/60秒に固定されるが、シャッターは切れる。絞りとフィルム感度で残りを合わせろ、という設計である。
測光にも同じ手つきが出ている。公式が自社の達成点として挙げるのは、ピンホールミラーによる正確な測光。反射鏡に微小な穴を開けて光の一部を下へ抜き、ボディ底部の受光素子でフィルム面側を測る構成で、ファインダー側の光量に測光が引きずられない。絞り優先AEを最上位機に載せる以上、測光の素性は外側の造形以上に問われる部分だった。
2026年9月時点では、SR44はヨドバシカメラなどの量販店やネット通販で1個400〜800円ほどで買える。1980年に「入手できない地域がある」ことを理由に機械式の1速を残した設計が、いまはその理由ごと骨董になっている。にもかかわらず、防湿庫から出したF3のシャッターが切れるかどうかは、結局この1速で確かめることになる。
175,000円と60,000円を、同じ棚に置いた。
1980年3月の店頭に、ニコンは価格差およそ3倍の2台を同時に置いた。上はニコン F3、50mm F1.4付きで175,000円。下はニコン EM、50mm F1.8付きで60,000円。同じメーカーの、同じ月の、同じショーケースである。
質量でも差は開いていて、F3のボディ700gに対してEMは460g、その差240g。EMの公称寸法は134.5×86×54mmで、F3の148.5×96.5×65.5mmと並べると、幅で14mm、高さで10.5mm、奥行きで11.5mm小さい。手に取れば別のカメラだと分かる差だが、ロゴは同じものが載っている。
EMはもともと国内向けに用意された機種ではなく、1979年3月にシカゴで開かれたPMAショーで先に姿を見せている。米国市場からの低価格機要望に応えるかたちで輸出が始まり、国内発売はそこから一年遅れた。つまり、EMにとっての1980年3月は「発売」ではなく「帰国」にあたる。
なぜ一年待って、よりによって最高峰と同じ月に並べたのか。ニコンはEMがブランドイメージを下げることを恐れていた——公式の記述はこうなっている。「Nikon was anxious that it not degrade the Nikon brand image. Which is probably why its release coincided with that of the F3」——ニコンはEMがニコンのブランドイメージを損なうことを心配していた。おそらくそれが、F3と発売を合わせた理由である。安いほうを単独で出せば格が下がるから、最高峰と抱き合わせた、という順序で書かれているのだが、ここで面白いのは語尾のほうだ。同月発売は事実として断定されている一方、その理由には「probably」が付いている。四十年以上たった自社の年表で、メーカー自身が推量形を残した。
公式がEMに与えた表現は「ニコンがそれまでに出した中でもっとも安い機種」。具体的な国内価格まで公式が書いているわけではないが、いずれにせよ自社史でそこまで書くこと自体が、この一台の置きどころを示している。位置づけの記述も率直で、初心者と女性に向けた小型軽量のAE一眼レフ——for beginners and women、と書かれた。
もっとも、最終仕様はオールブラックに落ち着いている。企画が途中でどう動いたかまでは公式に記述が無いが、結果として出てきたのは、黒くて小さくて軽い、どちらかといえば硬派な見た目の一台だった。
扱われる場所も違う。F3はニコン公式のカメラ史連載Vol.3で本編として語られ、EMは「Nikon Family Cousins, Part 11」——いとこの連載にいる。同じ月に並んだ2台が、社史の中では別の棚に分けられているというわけだ。
シャッタースピードダイヤルを、EMから外す。
EMの上面には、一眼レフなら当然あるはずのものが無い。シャッタースピードダイヤルである。絞り優先AEを基本の操作系に据え、速度を選ぶという行為そのものを撮影者の手から外した。
これを「安く作るために削った」と読むと、半分しか合っていない。削ったのは部品ではなく判断のほうで、絞りとピントだけ決めれば写る、という一本道に操作系を整理するために、その道から外れる機構を落としていった。上下カバーをプラスチックにしたのも同じ線上にあって、公式はコストと複雑さの双方が減ったと書いている。部品点数の削減も、単価の話であると同時に、組み立て工程と故障箇所の話でもある。
同じ時期の他社を見ると、この考え方がEM固有のものでなかったことが分かる。オリンパス OM-10は1979年発売、ボディ40,000円。巻き上げユニットとシャッターユニットを自動組立で作れるところまでモールド化設計を徹底した機種で、こちらは「機械に組ませるために設計を変えた」側から入っている。EMが操作系から削り、OM-10が製造工程から削って、行き着く先の価格帯は近くなった。
| ニコン FE 年間販売台数 | 25万台/年 | 公式記述 |
|---|---|---|
| ニコン FE 年間売上 | 100億円/年 | 公式記述 |
| 3年累計販売台数 | 75万台 | 単純計算/概算 |
| 1台あたり平均売上 | 4万円 | 概算/卸ベース |
EMの外観も、ジウジアーロが手がけている。ただし最初からではない。開発の途中から外観デザインを担当していて、開発当初のEMはファインダーのペンタ部も前面下部も細く、そこからダイキャストの変更に伴ってボディが変わった。モータードライブも作り直されている。ニコン MD-Eを、F3用のニコン MD-4に倣って底を斜めに張り出させた形へ——上位機のために作った造形の文法が、そのまま入門機の付属品へ降りていったことになる。F3は最初から外装を任され、EMは途中から呼ばれた。入り方は違っても、1980年3月に並んだ2台の外側は、同じ人の手を通っている。
DUAD SELECT
1977〜1980年、自動車側では何を出していたか。
F3とEMの外装を手がけた人物は、同じ時期に自動車の仕事も抱えていた。カメラ2台の位置を測るには、その年に何が世に出ていたかを横に並べるのが早い。ニコン公式には自動車側の年譜は載っていないので、そこは別の資料に当たることになる。
そして、数が逆を向く。EMは発売初年度の1980年度だけで国内外合計40万台を超えたと記録されており、1984年末までの累計は153万台に達している。F3はフラッグシップとして1980年3月から2000年まで、およそ20年売られ続けた機種だが、積み上げた台数の桁が違う。5年足らずで153万台という速度は、報道現場で使われる機材の数え方ではない。
EMには「リトルニコン」という呼び名が与えられ、この呼称はニコン公式の記述にも残っている。小さいほうのニコン、という言い方が愛称として成立するには、大きいほうのニコンが同じ月の棚にいる必要があった。ブランドを守るために並べた——と公式が「probably」付きで書いた判断は、結果として、ブランドが届く範囲そのものを広げたことになる。
それまでのニコンは、高級一眼レフを作る会社だった。EM以降、上から下まで揃った総合一眼レフメーカーになる。1980年3月に並んだ175,000円と60,000円は、値札の差である以上に、その転換の初日を示す2枚だった。
数量の柱は、F3でもEMでもない3台目。
日本光学工業の当時の主力機種として公式が数字を挙げているのは、F3ではなくニコン FEである。1979年度から1981年度の3年間で、年25万台・年100億円。単純計算すれば3年で約75万台、1台あたりの平均売上は約4万円になる——卸ベースの数字で、店頭価格ではない。
175,000円
ニコン F3+50mm F1.4の発売時価格
FEの1台あたり平均売上約4万円に対して4倍強
ただし卸ベースの平均売上と、レンズ付きの店頭価格は、そもそも同じ土俵に乗らない。それでも桁がひとつ違うことだけは確かで、ショーケースの一番上を見上げ、値札を見て引き返した記憶とも重なってくる。
重量で並べると、F3の700gは当時としても軽くない。キヤノン A-1が620g(1978年)、キヤノン AE-1 PROGRAMが565g(1981年)。いずれもキヤノン公式の値で、F3より80〜135g軽い。ただしA-1もAE-1 PROGRAMも普及・中級クラスの機種であり、MD-4装着を前提に骨格を組んだF3と単純比較はできない。EMの60,000円と並べれば、同じ月の同じメーカーで約3倍の開きになる。公式がEMに与えた表現は、さきの「ニコンがそれまでに出した中でもっとも安い機種」である。
量を出していたのは中級機で、外装を作り直す予算と時間を投じたのは最上位機と最下位機だった。この配置が意図されたものかどうかは公式資料に記述がないため推測にとどまるが、結果として1980年3月のニコンの店頭には、同じ人の名前が付いた2台が価格帯の両端に並んでいたことになる。
20年、前面の造形はそのまま。
F3は1980年3月に出て2000年まで売られ、後継のF4は1988年9月に発表されて発売は同年12月だったが、旗艦が代わったあともF3はカタログから外れなかった。F4の外装もジウジアーロが手がけているので、同じ手が、旗艦の二代にわたって外側を決めたことになる。
派生はF3HP、F3T、F3AF、F3P、F3H、F3 Limitedと多く、外装素材もファインダーも別々に試されているが、前面の造形だけは共通している。
増えたのはファインダー、外装素材、電源、駆動系といった周辺のほうで、前面の造形は動いていない。データバックのニコン MF-14のような純正アクセサリーも用意されており、ボディの底と背面に別の箱が付く前提で外装が設計されていた点では、MD-4と同じ系譜にある。F3の外装は、単体で完結させない設計だった。
TIPS
MD-4を付けて握ってみる。
公式はF3の外装を、ボディとモータードライブMD-4の一体で見て設計したと書いている。中古店でMD-4付きのセットに出会ったら、値段の前に一度その状態で握ってみるといい。グリップのふくらみが何のために彫られたのかは、箱を付けた瞬間に手のひらで分かる。
そこで、いま中古のF3を見るときの順序を一つだけ。先に見るのは外装ではなく、前面の赤い線の下——マウント座の面である。ここが荒れていれば、それだけレンズを抜き差しされてきた個体ということになる。そのすぐ上を走る赤い線は、グリップのふくらみが始まるあたりに入っている。公式が外装として挙げた4点のうち2点が、この狭い範囲に同居しているわけで、前面を眺めるときはこの2つをまとめて見ることになる。ジウジアーロが入れた一本は、46年後にF3を手に取るときの、最初の目印でもある。
次に、電池を入れずにバックアップ機械レリーズレバーを使い、約1/60秒で幕が走るかを見る。走るならSR44を入れて露出計の反応を確かめる。裏蓋の遮光材が粉になっていれば、そこは交換になるが、保管状態によってはシャッター幕よりも先にこの遮光材が痩せている個体も多いとされる。
そして最後に、MD-4を付けた状態で握る。公式が外装をボディとMD-4の一体で設計したと書いている以上、700gの単体だけを握って「グリップの造形」を語ると、前提の半分を落とすことになる。ショーケースの一番上で見上げたあの姿は、たいてい下に箱が付いていた。その姿に自分の個体を戻してはじめて、1977年後半に固まった外装が、何を前提に彫られたものだったのかが手のひらで分かる。
F3の外側が残したもの。
フィルムは終わり、電子制御は何世代も入れ替わった。それでもニコンのボディには、いまもグリップのふくらみがあり、前面に赤い線が入っている。1977年後半に固まった外装の2つが、下にある技術を全部乗り換えながら、46年ぶん残っている。